MickeyTounoのブログ

離婚紛争の理不尽を忘れないために

無念だが

私は結婚してからの19年間、ただ一人の家計支持者だった。妻にはできるかぎり子供と一緒にいてやって欲しかった。そのために、家計を支えることを自分にとっての最も大事な責任と考えてきた。どんなに苦しくても仕事を放り出したことはない。結婚して以来妻はそのことに感謝と労いをしてくれた。子供もそうだった。だが過去2年間、妻から労いの言葉を聞いたことはない。それでも家族のため仕事を頑張ってきた。子供たちの「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」だけが私を支えてくれた。
妻が子供を連れて家を出て以来、それもなくなった。それでも頑張ってきたが、やはりだめだった。私は仕事を続けられる状態を維持できず、成果をあげることができなかった。私のキャリアで初めて、顧客から契約を解除された。

会社は私が戦力にならないと判断し、休職を勧めてきたが、私は顧客や会社、同僚に迷惑をかけた自分を許せなかった。しかし自分が本来のパフォーマンスを発揮できるとは到底考えられなかった。だからもっと負荷のかからない仕事に変えることを考え、転職活動を始めた。だが、今の心身の状態ではどのみち正常に業務を遂行することはできない。かといって私には自分の都合で仕事を放棄することはできない。妻に経済的自立の意思がない以上、子供の生活環境を維持するためには私が仕事をするしかない。

私の心を最も乱すものは、面会交流に関する妻の要求だ。これを目にするたび、私は怒りに我を忘れ自分を見失ってしまう。そして数日間にわたってほとんど仕事ができない状態になってしまう。妻の意図は明白だ。私が到底受け入れられない条件をつきつけ、子供と会いたければ要求をのめ、子供に会わせるか否かを決定する権利を持つのは自分であるという姿勢を私に見せつけることだ。それは極めて不合理なことであるが、私にはどうすることもできない。法はそのような妻の振る舞いを権利として許し、咎めることをしない。私にできることは新たな法的手続きを申し立てることだが、それ自体が数か月以上の時間を要するものであるため、結局妻はやりたい放題なのだ。しかも、法的手続きの結果得られるものはわずかなお金だけだ。

私は自分にできることがないと認めるほかない。私のただ一つの目的であった裁判所による事実認定の希望は絶たれた。私は自分の正当性を今でも確信している。だが法は妻の不当を咎めることはしない。罰則がないのだ。子供のため私がすべきことは、一刻も早く離婚を成立させ、妻とのやり取りを完全に終結させることだ。そしてそのために、私は面会交流を求めないことにした。私が指定する条件は一つ、長女が会いたいと望んだ時、望んだ場所で望んだことをする、そのために会いに行く。こうすることで、妻は「子供を私に会わせない」という実を得ることができ、私は「長女に会えるのも会えないのも、妻の要求ではなく長女の意思だ」と納得することができる。

私にはこの終わらせ方しかないような気がしている。

死ぬことは常に私の選択肢として存在している。だが、死ぬことはいつでもできる。その前に、少しでもできることをやっておきたい。
無念であるが。

本当に、無念であるが。